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【限定公開】闇の底より主に訴える[山學ノオト2(二〇二〇)収録]

闇の底より主に訴える

 

『山學ノオト2(二〇二〇)』より、青木海青子さんのエッセイ「闇の底より主に訴える」を公開します。

著者最新刊『本が語ること、語らせること』(夕書房)ほか、『山學ノオト』(1)(2)や、『彼岸の図書館』『手づくりのアジール』ともどもお楽しみください。

 

青木真兵さんのエッセイ「それが渡世人の楽しいところよ」も公開されています。リンクはこちら


 先日SNSで流れてきた体験談を、たまたま目にしました。そこには、働き始めてすぐに精神を病んで休職した人が、会社の先輩に呼び出されて「そんなんじゃ、給料ドロボーだよ」と諭されてショックを受け、心の中では色々な言葉が渦巻いていたが咄嗟に何も言えなかった、という顛末が記されていました。

 このエピソードを読んで、ドキッとしました。私も、転職先で仕事を覚える間もなく休職した経験があるからです。「仕事を覚えていない専任職員」としてデスクに座っていた頃、やはり同じような意味合いの言葉を耳にしました。「毎日来てニコニコして座ってるだけでいいなら、私があの席に座りたいくらいだわ」と。「どーぞ、どーぞどーぞ」と言ったかは覚えていませんが、結局復職は叶いませんでした。そんな記憶を紐解くうち、ある言葉を想起しました。

 

 

「闇の底より主に訴える」

 これはホラーでありながら、ヒューマンドラマとも呼べる映画「シックス・センス」に出てくるコール少年が口にしていた言葉です。彼を見守る精神科医・マルコムは、少年がラテン語でこの言葉を唱えていたことを不思議に思います。コールには実は幽霊が見えていて、声も聴こえます。先の言葉は、彼が幽霊から知り得たものだったのではないかと思われます。コールの目線を通すと、日常のそこかしこに幽霊が居るのが見て取れました。マルコムやコールの母、多くの人には見えていませんが、街中にも学校にも家の中にも幽霊は存在しているのです。

 

 小川たまかさんが、社会の中で黙殺される女性たちの姿をエピソードで浮かび上がらせる『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』(タバブックス)という本を著していますが、「シックス・センス」に出てくる幽霊たちの姿は、まるで社会の中で「ほとんどない」ことにされている弱者やマイノリティのようです。姿は見えづらく、見えても目を逸らしたくなる。そして声は聴こえにくく、どんな助けを求めているのか、すぐには分からない。幽霊自身も、それが分からなくなっている場合も多いのです。

 

 私は昔から幽霊譚が好きだったのですが、もしかしたらそこにマイノリティ性だったり、狂気と健常の線引きのようなものだったりを無意識に汲み出していたのかもしれません。幽霊譚で幽霊が生者との違和を発見されるのは、「普通ならしない」行動や姿をしていることがきっかけであったりします。夏なのにニットを来ているとか、雨の中傘もささず立っているとか、深夜に人気のないところに居るから変に思ったとか。

 こうした幽霊譚を好みながら、私は自分が「変に思われる」ことには物凄い恐怖を覚えてきました。この恐怖が言動を縛っていたと言っても過言ではありません。これはおそらく、変に思われて社会の中で「ほとんどない」ことにされ、姿も声も認知されない、黙殺される幽霊になってしまうということへの恐れだったのではないでしょうか。

 

 そう考えると、冒頭で紹介したエピソードに出てくる会社の先輩も、もしかしたら私と同じような恐れを潜在的に抱いていたのかもしれません。「給料ドロボー」になったら終わりだ、自分はそっち側じゃない、と確認したい。だから参っている後輩に追い討ちをかけるような言葉を投げかけてしまうし、後輩の話を聞こうという姿勢にもならない。だけど生者と幽霊がそうであるように、本当は精神を病んでしまう人とそうでない人なんて、紙一重なのではないでしょうか。

 

 私は今ではこういう恐怖を抱く機会はだいぶ少なくなってきました。というのも、仮ながら彼岸に暮らし社会の幽霊になったけれど、幽霊暮らしは存外に穏やかで、悪いものではないと分かったからです。いや、私は初めから幽霊で、それに気がついただけなのかもしれませんが。

 幽霊の声を聴く少年が発した「闇の底より主に訴える」という言葉は、困難の当事者にはしっくり来ます。時々闇の底をのたうち回り、ごちゃごちゃ考え、ぼそぼそ声を出す心象と重なるのだと思います。闇の底まで行ったって、特に終わりじゃないし、声も出せるんです。(海)

 

著:青木海青子

初出:『山學ノオト2(二〇二〇)』(青木真兵、青木海青子・エイチアンドエスカンパニー)