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友田とん×柿内正午 ナンセンスな問いに対しても誠実に考え続ける

*この記事はポイエティークラジオ第二十二回 【ゲスト:友田とんさん】(2020年12月7日公開)を文字起こしして再構成したものです。

音声はこちら→https://anchor.fm/akamimi/episodes/ep-enaaam

 

*『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する2』(友田とん、代わりに読む人、2020年12月11日刊行)を読んだ前提のトークのため、本書のネタバレめいたことがありますのでご注意ください。それがネタバレとして、読後感に影響を与えるかどうかは、あまり判別としませんが。

 

今回公開したテキストの続編的対談が、

2021年5月9日 15:00〜

より、オンラインにて行われます(アーカイブあり)。参加者には、今回の記事に加えて、当日の対談を書き起こしたものをセットにして印刷したペーパーをお送りします。

詳しくは下記よりご確認ください。

 

https://habookstore.shop/items/608a173bda019c7350abec78

 

〈ただナンセンスで喜んでいるだけというのだとお話として深まらない〉

 

柿内:こんにちは、ポイエティークラジオです。お相手はわたくし柿内正午と、特別ゲストでこの方です。

 

友田:友田とんです、よろしくおねがいします。

 

柿内:今日は、友田さんが新しく出された『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する2』という本を読んで、たいへん面白かったのでその話をしたいぞ、というところでお呼びしているんですけれど……、友田さんについては、詳しいことは各自調べてもらって。いきなり本題からはじめられればと思っています。

 で、早速。もともと『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する1』が出たときに、いつ買いに行こうかなって悩んでいたら友田さんに「早く本屋さんに走ったほうがいいですよ」みたいなことをTwitterで言っていただいて。それで走って買いに行って読んで。

 

 

2019.04.18(5-p.135)

きのう、昼休みにツイッターを開くと友田とんさんからリプライをいただいていて、それは「『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』を好きな本屋まで買いに行くか文フリまで待つか悩みに悩んでいる。」というつぶやきに対するもので、わ、なんかかまってほしいみたいな投稿になっちゃっただろうか、なんてことを思わなかったがいま思うと思われて、とにかく「代わりに読む人」の営業さんは熱心だなあと感心して、いい仕事ぶり、と思って、だからさっさと買いに行くことになった。

(プルーストを読む生活 柿内正午 H.A.B p.283)

 

 

それから満を持しての2巻なんですけれど、読んでいて、1巻はアハハと笑いながら、それこそ『『百年の孤独』を代わりに読む』(友田とん、代わりに読む人)の次はこんな感じなんだ、と思いながら読んでいたんですけど、2巻になってある意味真骨頂じゃないですけれど、『『百年の孤独』を代わりに読む』の終盤でA子さんがまた出てくるところみたいな、書いている本人も暗中模索で苦しんでいるような感じが2巻は続いている気がして。もちろんアハハと笑える部分もあるんですけど、いよいよ探求の旅というか、冒険が始まっていくんだ、というところをすごく感じるなと。

 

友田:そうなんですよね。1巻のただただおかしいという話が2巻以降も続くと思っていた人が結構いらっしゃるんじゃないかと思っていて。いまちょうど本屋さんに本が届き始めて、いろんな方がTwitterとかで紹介してくださっているんですが、本のパラパラ見た印象とか、文章をちょっと読んでみて、1巻と同じように紹介いただいていることもあって。でも読んでいくとわかるんですが、今回は全く違う感じにしたんですよね。柿内さんも以前の(ラジオ)放送で「どうなるのかわからなくて怖い」ということを言ってくださっていて。ぼくも着地点、行き先がわからないまま書いていたところがあって、いま読みなおすと「暗いな」というか、笑えないんじゃないかっていうか。笑えないことはないと思うんだけど、ただ何も考えずにアハハという感じではない。逆にそこを今回はしっかりと書きたいと思ったんですよね。

 

柿内:これ最初からシリーズ前提というか、一冊目の時点でちゃんと「1」と書かれて出ているじゃないですか。こういう展開って最初から思っていたものなのか、書いているうちに出てきたものなのか。

 

友田:書いているうちに、ですね。一番最初はタイトルの「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する」という言葉だけがぱっとあって、どう始まるかもぜんぜんわからなかったんですけど、書き始めたら(1巻冒頭の)フレンチトーストの話になって。言葉だけが出てきたときは、2巻と、最初のフレンチトーストをただ食べられないおかしな話との中間くらいのイメージだったと思うんですよ。ただ、最初に出てきたのがフレンチトーストだったから、ずいぶん軽い話になったなと自分でも思っていて。でも、ただナンセンスで喜んでいるだけというのだとお話として深まらないというか。深いところに行きたいというのはあるんですよね。それがただただおかしい話だけしていて深くなるんだったらそれでもいいんだけど、深くなるんだったらちゃんと……というか、重たいところも出てくるんだなというところが2巻ではありましたね。

 

柿内:ぼくも今回読んでいて、これは読み方としてはずるいかもしれないんですけど、友田さんって自分でレーベルも立ち上げられて、流通から何から何まで自分でやられているじゃないですか。友田さんが自分で本を作っていて、その本を届けるためにはじめられたような活動、それはすごく誠実なものだと思っているんですが、その活動の内容も本に反映されてきたのかなとも感じていて。これも語弊のある言い方かもしれないですが、友田とんという作家はある意味、社会活動家というか、めちゃくちゃ「ナンセンス」な切り口から、実はかなり社会派なことをやっている作家なのかもしれない。きっかけはナンセンスだけれども、そこからやろうとしていることは…‥、実用的というか、実践的なことをやっているんだなと思いました。

 

友田:一見ふざけているんだけれど、ナンセンスなことをやったほうが足をすくわれない、っていうのかな。具体的な社会問題に取り組むのはすごく重要な仕事なんですけど、ぼくがそういうふうに取り組んでしまうと、なんか「お勉強」みたいになっちゃうんですよね。正座して読んでしまう。もちろんお勉強は良くて、それ自体も好きなんですが、もっと違う可能性を模索しようと思うと、一見ふざけているように見える形で試行錯誤する場がないと窮屈というか。それは危険なことではあって、とんでもなく間違ったことを言う可能性もあるので十分気をつけなきゃいけないんですけど。だから、ナンセンスなように見えて社会的な問題を実践しているように見える。それはそうありたいと思いますね。出来ているかどうかはまだ自信がないんですけど。

 

柿内:ぼくは1巻を読んだときに……、

 

2019.04.19(5-p.136)

僕は友田とんを「日本のトーマス・トウェイツ」だと勝手に思っている。

 

ゼロからトースターを作る。

『百年の孤独』を代わりに読む。

人間をお休みしてヤギになる。

パリのガイドブックで東京の町を闊歩する。

 

ナンセンスな思いつきを、律儀にルール化して自分自身に課し、そのルールに忠実であろうと全力を尽くし、ときには逸脱し、逸脱してしまったうしろめたさを紛らわすために屁理屈をこね、ルールは絶対じゃないと自分を正当化する、しかしそもそもルールの出自自体がナンセンスなのだから、本人が真面目であればあるほど冗談が過ぎていく。

(プルーストを読む生活 柿内正午 H.A.B p.287)

 

と書いたんですけど、2巻を読んでいると、冗談が過ぎて行った結果、真面目に回帰してくるんだと。それは『『百年の孤独』を代わりに読む』のドリフのコントを参照しながら『百年の孤独』を読むという態度にも、いま読み返してみると通底していた態度なんだな、と。一見するとテレビドラマやコントを参照しながら読んでいくという態度は本に対して一見不誠実というか、冗談がすぎるように見えながらも、本に対して自分の生活感覚から、「お勉強」させていただきますという態度じゃなくて、肌感覚として一冊の本と向き合っていくやり方としてすごくまっとうだったんじゃないか。ただの冗談ということからどんどん先に行こうとしていることが2巻を読むとわかって、これから3巻、4巻と続いていくときに、どこにつれて行かれるんだろう、みたいな怖さを感じました。

 

友田:とはいっても、先の見通しがあるから2巻が出たんだろうと以前言われたんですが、そういうわけでもなくて(笑)。そうでもないっていうか、これはぼくが本づくりの全部の工程をやっているからだと思うんですが、2巻の最後の章を書いたときは全く続きがわからない状態で、本の中に出てくる「私」が「準備体操はできたんだよ」っていうんです。ぼくが準備体操は出来たって誰かに言ったわけではないので、これはフィクションなんですけど(笑)。でもフィクションの中の「私」が準備体操は出来たんだよって言ってくれたことで、ぼくも楽になって、それから編集したり校正したり、組版して印刷して出荷していくなかで、なんかちょっと3巻が見えてきましたね。不思議な話で。書いているだけだったら3巻は出てこなかったのかもしれない。作者じゃない仕事をいろいろしている中で、「あ、これは!」というか、2巻の中に自分では書いてあるんだけど通り過ぎちゃっていたところにもう一度目がいって、これが3巻かなというところがなんとなくわかってきたんです。だから続きを書くことに関してはいまは楽観視しているというか。

 

柿内:そっか、ちょっと安心しました(笑)。

 

友田:でも読むと全く続きがわからないですよね(笑)。

 

 

〈ある程度だれでも小島信夫になれる試み〉

 

 

柿内:1巻もそうなんですが、2巻も冒頭の「私」は友田さんの実態に近そうなんだけれど、第三章の「セブンイレブン」あたりから文章や構成の練られ具合がまた一段と上がっていく感じがして舌を巻いたんですけど、いい意味での作為性というか、最後のものすごいフィクショナルな会話まで、友田さんではない「私」として読める部分が結構あるなと。そうなってくると、この本のジャンル分けの難しさ、というか。最初はエッセイのような気持ちで読んでいたらだんだん小説じみてきて、かと思うとまたエッセイにもどってきてというように行き来しているように感じられました。

 

友田:作者としての「私」と編集者としての「ぼく」の二人いて、編集者のぼくは「ちゃんと3巻だけ手にとった人にもリーダブルにしてください」って言うわけですよね。でも作者は続きものとして行きたい方に行くから、そのへんを二人でどう調整するかとかは、やりとりがあるかなぁと。ちゃんと本になってある程度の人には楽しく読んでほしいというのは、自分自身に課しているところもあるので。そのあたりは、好きなように書いているのとは違う面白い部分でもありますけどね。でもいま言ってもらったフィクションみたいになってきているというのは、『『百年の孤独』を代わりに読む』でも最後の方は「私」に現実ではないところが入ってきて。そういうのが好きなんでしょうね。

 最近、「私淑」という言葉を学んだんですが、私淑……、つまりリスペクトしているわけですけれど、後藤明生とか、あるいはこれを私淑というのはちょっと違うんだけど、すごいと思う小島信夫とか保坂和志とかそういう人たちも、現実のことを書いているんだか、エッセイなのかわからないところがありますよね。そういうところへのあこがれがあるんでしょうね。あとはなんとかして小説を書きたいという気持ちがあるから。エッセイから小説に向かっていくということですかね。いきなり小説を書かれる方ももちろんいらっしゃるんでしょうけど、いろいろやった結果、現実からちょっとづつズレていくことで、もしかしたらフィクションにたどり着けるんじゃないか、みたいな思いはあって。東京の中にパリを探すっていうことと、エッセイのなかにフィクションを探すみたいなこと。いくつかのことに同時に取り組んでいるのかなという気がしています。

 

柿内:ぼくも小島信夫がすごく好きなんですけど、小島信夫の凄さって再現不可能性というか……あれは小島信夫にしかできないじゃないですか。どういうつもりでこの文章書いたんだということがたぶん本人すらわかってなさそうな感じ(笑)。それが小島信夫の凄さ、この人どこまでわかっていたり計算したりしているのが全く読めないところに面白さがあるのだとすると、友田さんが『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』でやっている試みって、ある程度だれでも小島信夫になれる試みでもあるのかなって(笑)。

 

友田:面白いですね(笑)。

 

柿内:最初にぽっと出てきたナンセンスなキーワードに一生懸命格闘してみれば、素面のままでも、まっとうなままでも小島信夫めいた事態     に陥っていけるかもしれない。一つの方法論なんじゃないかと。

 

友田:1巻が出たときに、「練習問題」って言ってもらったことがあって。テキスト自体が練習問題なんだと。そういう練習問題に取り組めばなにか起こるのかもしれない。小説というか、テキストがそうなんですけど、脳をバグらせたいわけですよね。別に薬物を投与していないのに酔ったような気になるなにか作用を及ぼしたいと、なんとなくみんな思っているわけじゃないですか。そう思えば小島信夫みたいになるようなバグらせ方をしている(笑)、ということなのかもしれないですね。小島信夫の魅力は喋っているだけで一時間くらい……。

 

柿内:かかっちゃいますね。

 

友田:その点、後藤明生は常にいるので。

 

柿内:(笑)。

 

友田:居るのでっていうか(笑)。ともするとモノマネになっちゃうのでそうはならないように。逆に小島信夫は今回意識的に書いたところがあって。ときわ書房志津ステーションビル店の今週売れた本を紹介するボードのところで……、

 

ときわ書房志津ステーションビル店の今週売れた本を紹介するホワイトボードで文庫化した『『罪と罰』を読まない』(文春文庫)とともに『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する1』が取り上げられていた。そこには「山内マリコ『パリ行ったことないの』(集英社文庫)を著者にはすすめる」と書かれていた。その著者が私である。

(『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する2 読めないガイドブック』 友田とん 代わりに読む人 p.21-22)

 

この「その著者が私である」って別にいらないんですけど、ちょっと小島信夫っぽいと思って入れたんですよ。

 

柿内:ちょっとわかります(笑)。ぼく奥さんに今回ゲストにお呼びするからと思って、『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』を読み聞かせてたんです。そこで一番受けが良かったのがここです。

 

友田:(笑)。これネタバレなんですけど、小島信夫の『抱擁家族』にがんで入院している余命幾ばくもない妻がいて、ああだこうだとあって最後「その妻の夫が私である」って言うんです。そこは大好きなところで。

 

柿内:小島信夫って自分のことはぜんぜん信頼していないけど、他の人達への信頼がすごいなと思っていて、自分はわからないけど他の人達はみんなわかっているんだろう、みたいな態度で話を書くから、小島信夫にとっては「妻にとっての夫が私だ」ってわざわざ書かないとわからないから書いたんじゃないかと思うところがあって。

 

友田:笑わせようと思って書いてるわけじゃないですよね。

 

柿内:どうなんでしょうね。

 

友田:書いている小島信夫と小説の中の私もちょっと違いますよね。

 

柿内:方法論みたいな話につなげると、『『百年の孤独』を代わりに読む』や『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』という問いを前にしたときに、訳わからなく“ならない”人間はいないわけじゃないですか。もう何もわからないっていう状態に立った上で、でも読み出す、歩き出さないといけないとなったときに人は小島信夫になるんだなって。それこそ友田さんがTwitterでも書かれているような、思考停止に甘んじてはいけない、というような態度って、常にわからない状態に身を置くっていう話じゃないですか。常に難しい、しんどいことのように思っちゃうんだけど、実はそうでもない、というか。もっとおかしなものでもあり得るよね、と。なんで東京にエッフェル塔はないだろうということを考えるだけでも十分というか(笑)。それで考え続けるということを実践するところからいろいろ始まっていくんじゃないかなみたいなことを思って。そう思うと実は「ガイドブック」なのかもしれませんね。

 

友田:なにかのガイドブックではあるかもしれないですね、それがなんであるかはいまいちまだわからないけど。

 もうでもね、ただただ2巻は書けば書くほど暗くなるんじゃないかと思って進めていたんですけど、良かったですねぇ。最後「準備体操は出来た」って言ってくれて(笑)。最後は後藤明生に救われたみたいなところがあって、後藤明生ってちっとも暗くないじゃないですか。バックグラウンドはわりと重たいところがあるはずなんだけど、それを感じさせないんですよね。

 

柿内:友田さんの作品は、否定形から入って重たくなりきったところで、ここまで来たら次のフェーズに行くしかない、というような明るさがありますね。

 

友田:「まだ歩き出さない」、「読めない」と来て、もう次は「ない」はないんですよね。     3巻のサブタイトルはいまのところ「ない」はつかないです。編集者のぼくが次は「ない」はやめてくれって(笑)。あと書き方も変えようと思っていて、2巻はわりとしんどくてなかなか書けなかったんだけど、今度からは3ヶ月に一章書くようにしたいと思っています。『文藝』に連載しているようなつもりで、締切を設けて。それが四本くらい集まると一冊になるようなイメージです。

 

柿内:それこそ2巻ってカチッと構成が固まっているなという気がしていたので、連作っぽくなるのもまた楽しみです。

 

 

〈間違った問いに対してでも誠実に取り組むということはできるよね〉

 

 

友田:最初にゲストに出ませんかと言ってくださったときって、時期的にわりと怒っていたというか、出版に関しても搾取する形で本を作りたくないってツイートしたりしていて。だからだと思うんですけど「誠実さ」みたいな話をしたいというような依頼をもらって。そもそも誠実についてぼくが何かを話すような資格があるんだろうか、というのがまずあるんですよ。そもそも完璧に誠実な人間というのは存在しなくて。だからなにかしらやましいところはありますよね、というところからはじめないと。自分は誠実ですって自分で言うような人間って一番信用できないじゃないですか(笑)。自分も叩いたらホコリが出ると思うんですよ。でも、自覚している部分に関してはちゃんとやりたいというところと、あと指摘されたらほんと素直にすみませんと言う、とは思っているんですけど。難しいですね。

 

柿内:そもそもなんで友田さんとこの話がしたかったかというと、書かれている作品もすごく誠実だと思ったからなんです。友田さんの誠実さの信用できるところって、叩いたら自分もホコリが出ますよ、というところを周りで見ている人たちも自分もみんながわかるような形で示していることだと思っていて。『『百年の孤独』を代わりに読む』も『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』も、前提から間違っている作品であるわけで、そんなこと出来ないよというところから始まるんだけど、その間違った問いに対してでも誠実に取り組むということはできるよね、というか。結論として、最初の問いが間違っていれば結果も間違っちゃうんだけど、自分で見つけた問いに対してちゃんと取り組むという態度自体は、十分誠実なわけじゃないですか。そういうところで、友田さん自身も一つの正しさを代弁するとか、何かを断罪するために誠実であろうとしているわけじゃなくて、友田さんがある種勝手に決めた、「搾取しない」や、「利益出していこう」だとか「部数は売っていこう」というルールに対して誠実に取り組んでいこうとすること。これが作品ではナンセンスとされるようなものがルールになっていて、逆に現実で本を売っていくことについてはナンセンスではないルールが設定されているから見え方が違うんですが、実はやり方に関してはそんなに変わらないんじゃないのかなと。

 

友田:確かにそうですね。ナンセンスな問いを考えているときと、出版の実務的なことをやったり考えているときで、あまり頭の使い方は変わらないですね。あるとしたら、サラリーマンとしての友田、はちょっと違います。勤め人としては必ずしも自由な行動が許されないことがありますよね。書くことや本を作ることは、自分自身で責任を負ってやれることだから、そこに関しては同じ原理で動けるんだけど、組織に入ると完全に自由にはできなくて、ある種そこに強烈なフラストレーションがあるんです。

 

柿内:ぼくも普段はサラリーマンなので、友田さんがイベントで、普段の仕事と書くことをどうやって両立していますか、というような質問があったときに、両方に全力投球はできないから本作りが楽しくなってくると賃労働がおろそかになることもありますね、とさらっとおっしゃっていて。ぼくはそれにすごくはげまされたというか、そうだよね仕事まで含めて全部やるのは無理だよねって。

 

友田:それはぼくも嘘はつかないようにしているんですよね。なんかね、自分でも嘘はつかないようにするために、「嘘はつかない」っていうふうにしてるんですよ。

 

柿内:それは(笑)。

 

友田:や、なんていうか、仮に正しい答えは言えない時があったとしても、嘘にはならないように答えるようにしていて。少なくとも両立の話を聞かれたときには「できてません」って答えてます。

 

柿内:それは誠実さだと思うんですよね。どの面をだしても恥ずかしくないことってありえないけど、どの面においてどうするかをちゃんとしていることが誠実さなんじゃないかと。

 

 

〈生身の人間が書いているということ〉

 

 

柿内:「代わりに読む人」の次の新刊は、わかしょ文庫さんの『うろん紀行』の予定ですよね。この本が出てからも楽しみです。友田さん以外の本が代わりに読む人から出るということはある種、組織的になっていくわけで。

 

友田:個人からちょっとズレることにはなりますよね。なんで自分が出版をはじめたのか実はよくわかってないんですけど、他で出ない本を出したいんですよね。たとえば、他で出ない本の最たる例が自分の本だった、というか(笑)。それはある種「怒り」みたいなこともあって、なんで他からは出ないんだろうっていう疑問はあるんですよね。どうぞどうぞうちから出してください、って言われたら自分で出版はやってないでしょうし。もちろん、自分で出すことに不満があるわけじゃなくて面白い部分があってやっていることもあるんですが。それでそうなったときに、「これは自分だけじゃない」とも思うわけです。自分の本が出てないってことは他にも出てない人がいるだろうって考えて、出ていない人を見つけたらちゃんと出そうと。それがたとえばわかしょ文庫さんだった、というような。

 

柿内:友田さんのやられていることって、失礼かもしれないですけど、だれも思いつかないような独創性、って説明されることがあるように思うんですが、同じような人ってたくさんいて。むしろぼくはそこにすごく信頼を置いているというか、自分がおもしろいと思うものだったらあと1,000人くらいは同じように思う人がいるだろう。その感覚が強くあるのかなって。オリジナリティなんて、別にそれはだれであれ、たいしたことないですからね。世に何かを届けられる人ってなにかしらの共通項というか、普通の部分があるからこそ届くんだろうなと。

 

友田:そうですよね、そんなに独創的っていうことはないですよね(笑)。なのによく独創的とか他にないって言っていただけて、それは嬉しいし喜ぶべきことだとは思うし、ありがたいんですけど、別に考えている事自体は他の方もできるんじゃないですかと思います。だからそれはぼくの力ということではなくて、生身の人間が書いているということがあるんだろうと思っていて。生身の人間って、その場にその人がいて、そこで目に入ってくることを書くわけじゃないですか。全く同じ経験をする人っていないわけだから、ずっと(人と)違うことを書いているという。ただそれだけだと思うんです。アメリカ在住の人は荻窪のTitleにフレンチトースト食べには行かないわけじゃないですか。

 

柿内:生身の人間が書いている、ということを忘れないでいるのって意外と難しいんじゃないかと思いました。デカイ主語で語るというか、Twitterとかも含めて、世間に対してなにか憤りを覚えることって、相手側も生身の人間で、そういうことをしないといけないような状況にいる人達であるってこと。それをあまり想像できないまま強い言葉を発したくなってしまう瞬間ってぼく     にもあるなって。だからこそそこでちゃんと、生身でいるじゃん、っていうところから話ができている友田さんのあり方に見ていて安心感というか、信頼できるなという感じがあるのかなと思いました。

 

友田:これはいろんなところで言うんですけど、数学をやっていたことが関係しているんじゃないかって思っていて。抽象的に抽象の話をするんじゃなくて、抽象的に具体の話をしたり、具体的に抽象の話をするとか、必ず行き来をするんですよね。抽象的な話になったままずっとやってもそれはよくわからないし。だからそれこそ『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』は具体的なことしか書いていないのに、なにか抽象的な話をしているように感じることってあると思うんですけど。

 

柿内:そうですね。

 

友田:そういうことなのかなぁって。

 

柿内:ぼくは高校の一年くらいで数学に見切りをつけちゃって。だからいま数学にすごく憧れがあるんですよ。

 

友田:でもぼくも高校一年の数学Aの等比数列の和の公式とか覚えられなくて、赤点とって。高校の後半や大学も文系だったんですよ。そのあと理系に戻って数学をやったから。だから分かる人はさっさとやめちゃうんじゃないかな。数学がよくできる人はあまり数学を……本当にものすごくできてどんどんやる人はいるんだけど、けっこう数学できる人ってみんな数学がわかっちゃったと言って     終わっちゃうんじゃないかな。なんかわかんないけどおもしろそう、っていう感覚が圧倒的に研究したり勉強したりするのに大事じゃないかと思うんですよ。本当になんの手がかりもなくただ闇の中、というのは難しいと思うんですが、難しいけどなんかやったら面白そうだなみたいなのが重要な気がします。

 

柿内:ちょっとわからないな、くらいのところからじゃないと考え続けるのって難しい、というのは基本的なことなのかもしれないですね。継続していくためにはわかり過ぎちゃいけないのかも。

 

友田:そのときそのときの達成感や満足っていうのは、例えば一つ書き終ったときって、あるじゃないですか。その一方で、もっと違うものがほしいというのもあると思うんですよ。読書も同じで、読み終わって「なんてすごいものなんだ」って思うけど、時間が経つと「もっと」っていう気持ちがでてくるじゃないですか。

 

柿内:『プルーストを読む生活』も日々書いている日記が本になったんですが、ちょっと引け目があるというか。始めと終わりが明確なひとまとまりの作品を書いたことがないんですよ。でもぼくは自分にとってわかりきったことが書けない、というか。毎日、わかんないな、どういうことなのかな、っていうのを考えながら書き続けてその考えているさまを文章として残しておくことについては面白さを感じられるんだけれども、考え続けたあといったんここを落とし所に持っておこうというふうになっちゃうと、その仮定を一から説明してひとつのパッケージにしていく過程にどうしても興が乗らないというか、根気が続かないというか。困ったもんだなと思ってるんですけど。

 

友田:プラモデル作るのは好きだけど出来たら人にあげちゃうとか、編み物を編むのは好きなんだけどできたらどんどんあげちゃうとか。出来たものよりプロセス、やっている時間が好きな人はいますよね。食べ物とかも……、ぼくいつも思うんだけど、美味しいという事実では生きていけないじゃないですか。また食べたいと思って同じ味をまた食べるじゃないですか。なんで同じ味を何回も食べるんだろう、って。疑問……ってそれは一般的な意味では疑問じゃないんだけど(笑)。なんでだろうなぁって、美味しいものを食べると思うんだけど。

 

柿内:(笑)。こういう味が美味しいっていう結論があったとして、やっぱり食べてる間にしかその味はないわけだし、それを食べ続けている間に味が変わったな、好みが変わったなというのは当然あるわけだから、日々何かを食べ続けていないといけない。あとは普通に、成果物ってあんまりおもしろくないよなというのが自分の中に強くあるんだろうと思いますね。カレーが美味しいという感動があるとして、それが美味しいからって毎日同じカレー食べてればいいわけじゃない。それって、食べ物の比喩だと当たり前に聞こえるんだけど、考え事であったり、なにか自分の信条みたいなものだと、一度美味しいと思ったらそれだけでいいじゃんってなっちゃいがちな気もしますね。

 

友田:柿内さんの『プルーストを読む生活』に解説を書かせていただいて、そこにも書いたんですけど、柿内さんはずっと考えを練っているなという気がしますね。いろんな本を読んで、シンプルじゃないけれど考えを練っている。練ったものはあるんですよね。

 

柿内:むしろ固めたくないからずっと練っている、みたいな。

 

友田:練ったものに何かがぶつかると、そこで「そうだな」「そうじゃないな」というのも出てくるけど、固まらないからシンプルに言語化出来なくて。柿内さんの文章はその練っているプロセスみたいなものが文字になっていて、それ自体のほうが実際の考えそのものに近い、ということなのかもしれないですね。結論ってどちらかというともっとシンプルに「良い」「悪い」ということになるけど、柿内さんの文章はそういうことじゃないですもんね。

 

柿内:固めることに過剰につまらなさを感じるんですよね。

 

友田:やっぱりシンプルなものは面白くないというか。なんていうのかな……。数学って、なるべくシンプルに言えたほうがいいっていうものでもあるんですけど、一方ですごくシンプルな式が、見方によっていろんな理論が出てきていろんなことが言えるという、ある種の多様さみたいなところも同時にあるんですね。だから、ただシンプルで解釈の仕方も一つというものはつまらないですよね。あまり現実の物事はそういうふうにはなっていないから。

 

柿内:正解に対して多様なアプローチ、プロセスがありうるよというものって、正解があるんだとなった瞬間に最短経路を探したくなっちゃう。それも一つのゲームの面白がり方だからわかるんですけど、だからこそ間違ったゴールを設定して、それに対する間違え方っていうのはどうやったって一気には決まっていかない。だからその人なりに間違っていくことができる、っていうのが面白いところなのかな。ぼくが『『百年の孤独』を代わりに読む』や『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』を読んでいて、なんでこんなにワクワクするのかなというところの一つに、「この本を読んでいけばパリのガイドブックで東京の町を闊歩できます」という本じゃなくて、自分だったらどのように「歩き出せない」だろうかとか、自分だったらどうのように「読めないままでいる」のだろうか、みたいなところに一人一人の本物さ、というか、ぼくにとっての間違え方みたいなものが開かれている感じがするところがあるんだなぁという気がします。

 友田さんが『『百年の孤独』を代わりに読む』を出されてしばらくして、次は何を読むんですかって聞かれたときに、「自分では代わりに読まないけど、ある意味代わりに読むっていうのはオープンソースみたいなものだからみなさんで代わりに読んでください」、みたいなことを言われていて。

 

友田:それ完璧にセリフをおぼえてますね。そのとおりに言ったと思います(笑)。

 

柿内:それを言われたときはピンときてなかったんですけど、いま話していて、その間違え方っていうのはその人の独自性が現れるほかないんだから、代わりに読むというのはオープンソースとして広く開かれていても全然大丈夫というか、むしろそれが開かれていることによって生まれうる間違いというのがたくさんあるんだろうなと。

 

友田:あの質問は本当によく聞かれて。それはつまらないと思って。『百年の孤独』を代わりに読んだ次になにか他のものを代わりに読み出すっていうのは……なんか……つまらないですよね。もっと好きにやったらいいのに、というか、そういう自分が好きじゃなかったから、次は代わりに読みません、って。なのに出版社の名前は「代わりに読む人」って、ちょっとよくわからないことになっているんですけど。これはあまり言う機会がないのでついでで言うと、代わりに読む人、はぼくではないんですよ。

 

柿内:というと?

 

友田:みなさんも代わりに読む人ですよという意味なんですね。だれでも読んでいるときは誰かが誰かの代わりに読んでいて。「具体的に誰かの代わりにこれを読むことはできないけど、読むことっていうのはそもそも代わりに読むことではないでしょうか」というくらいのつもりです。時々紹介で「代わりに読む人の友田とんさんです」って言ってもらうことがあるんですけど、それだけ聞くとわけがわからないですよね。

 

柿内:(笑)。それは腑に落ちたというか。友田さんのレーベル名が「代わりに読む人」であることについて、そこはのっかるのか、という気持ちもちょっとあったんですけど、読書というのは誰かの代わりに読むことじゃないか、というのをとっかかりにしているという考え方を聞くとしっくり来ます。

またこんな話をしましょう。『プルーストを読む生活』(の合本版)がでたら合同でまたその話とか出来たらありがたいです。

 

友田:いいですね、それはやりましょう。ぜひぜひ。

 

柿内:じゃあまた。今日のゲストは友田とんさんでした。ありがとうございました。

 

 

 

以上

 

 

繰り返しになりますが、今回公開したテキストの続編的対談が、

2021年5月9日 15:00〜

より、オンラインにて行われます(アーカイブあり)。参加者には、いまお読みいただいた記事に加えて、当日の対談を書き起こしたものをセットにして印刷したペーパーをお送りします。

 

詳しくは下記よりご確認ください。

https://habookstore.shop/items/608a173bda019c7350abec78